2007-05-13

神楽坂の本多横丁、今は沖縄料理店

東京新宿区神楽坂の本多横丁、この通りの左側に親父の和菓子2号店があった。半世紀以上経た現在は沖縄料理店になっていた。
新宿といってもいわゆる繁華街ではなくて、
ちょっと横道に入ると昔風の料亭や塀などが見えた。
風情があるといえばあるのだが、田舎育ちの僕には馴染みが無く、何か異空間にいるみたいで、ミニチュアの街に入り込んだという感じだった。

2007-05-06

親父の挫折と失踪

ちょっと久しぶりの投稿、春につられて中弛みしてました。見に来てくれてた人ごめんなさい。少しずつでも書き続けていきたいと思います。

親父の認知症の件から離れているが、もう一つ書き残して置きたいことがある。
これも従姉妹から聞いた話だが、親父の三田の和菓子店は繁盛していて同郷の人も数人働いていた。
そこで2店目を考えたらしく今度は東京新宿区の神楽坂にも店舗を出した。
神楽坂といえば東京の花街・花柳界で栄えた代表的な地域だ。今でもそうだが親父のいた時代はもっと最盛期の頃だったんだろう。
そこで料亭やら芸者達への和菓子の仕出や販売を狙った出店だったとのこと。

でもその出店の為に借金をしたらしい。「高利貸しだったみたい」と言ってた。
そのせいで神楽坂の店は明渡すことになり、失意に沈んだ父は一時失踪というか行方不明になっていた。
京都方面に行っていたらしい。父の親、私のお祖父さんは奈良の人だからそっちまで足を延ばしたかは知らないが・・・ 和菓子の本場の京都で何を思って放浪の旅をしていたんだろう・・・父は一言も息子の俺には話したことは無い。その時の親父の心情が偲ばれる。父ちゃんの子供だから・・。

結局繁盛していた三田の方の店舗も主が居なくなり、借金の担保にでもなっていたのか店も土地も失ってしまう。この話をしてくれた従姉妹が伯母に言われて当時の50万円?を握りしめて土地だか店舗だかの入札に行かされたらしいが、何かもううまく決められて取られてしまっていてダメだったという。その後従姉妹が抜けていた半畳ほどの土地をめぐって裁判をしていて、勝取った半畳の土地の金額を父達に分けてあげた。
このブログのことは教えてないけど、「な~んて良い人なんだ」と書いときます!

親父が同郷の前妻との間に息子を1人亡くし、離婚した時期がこの当時と関わりがあったのか、前後の話なのかはよく聞いてなくて分からない、でもその後親父は田舎に戻り、また和菓子屋を開き、お袋と再婚することになる。

親父が寡黙だったのはこういう過去も人生に影を落としていたのかも知れない。
でも親父が田舎に戻り、新しい人生を再出発しなければ、今の私もこの世にこの場所に存在しない。そして父は私達家族にそんな過去の事など想像すらもさせない温和な俗に言う「良い人」だった。

「辛い思い」はその時は苦しむが、決して無駄じゃない!恥ずかしい事でもない!
それを乗り越えさえすれば、人の苦しみも分かり包容力も備えた温和で人間的な魅力をかもし出す人格も形成出来る。 (ちょっと親父を美化しすぎたかな?) いけないのは、落ち込み自分を卑下して悩みの迷宮から抜け出せないことだ!(・・私も反省します・・。)

2007-04-14

東京タワーと桜田通り


東京タワーがでっかく正面に見える。
この歩道を歩くシーンを数回TVで観たことがある。
ちなみに写ってる人はたまたま歩いてて写ってしまった人。
写ってる歩道の反対側の歩道に親父の店舗があった。

2007-04-13

東京タワーがない

親父は寡黙な人柄で昔の話とかはあまりしなかった。特に東京に住んでいた頃のことは一度も父から聞いたことはない。

母も父が昔東京の三田に住んでいて前妻との間に1人子供を亡くしていることぐらいで、あとは何も話してくれないから私も知らないと言っていた。

私がある程度の話を聞いたのは、伯母さんとその娘(従姉)からだった。

年代はよく判らないが、もう半世紀以上も前になる。
親父は東京港区の三田方面にある桜田通り(国道一号)に面した所に和菓子の店舗を構えていた。けっこう繁盛していたという。

道路を隔てたすぐ向いには慶応大学の東門がありこの通りの真正面にはでかくそびえ立つ東京タワーが建っている。

「桜田通り」はけっこう写真などの撮影のスポットで、時折TVドラマなどで東京タワーが映ったこの通りを歩くシーンを観ることがある。

親父が住んでいた頃は東京タワーはまだ影も形も無い。半世紀以上も前のことだから。
親父はこの通りでどんな想いを描いていたんだろう?
そして東京タワーの無いこの「桜田通り」の風景はどんなんだったんだろう? と思う。

2007-04-08

和菓子の丁稚奉公と二・二六事件

親父は昔、和菓子の職人だった。10代から丁稚奉公(でっちぼうこう)して東京の「風月堂」などで働いていたらしい。そして昭和11年のクーデター未遂事件だった「二・二六事件(ににろくじけん)」に遭遇したとのこと。

大雪の日、自転車でお店の配達?だかをしていた時皇居近くが騒がしくなり、自転車を止めて、なんだろう?と見ていると兵隊さんが行進していた、騒然としてきて警官だか兵隊(二・二六事件は陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こした反乱事件)が来て「ここに居るな!早く帰れ!」と言われて帰ったとのこと。それから数日戒厳令が布かれて外に出れなかったと。

社会の教科書で習った「日本の歴史」ぐらいの認識しかなかったが、親父は大正2年生まれ、歴史のちょっとした証言者だった。まだ痴呆症状や認知症になるずっと前に聞いた話だ。

2007-03-31

心臓病から脳梗塞、母の家系

痴呆症の親父の家系については前回に書いたが、実はお袋の家系は心臓病が多い。
息子の私としては・・・どっちに転んでも・・・・・という感じで将来を案じてはいたが、

ピンポーン!という感じで母方に転んでしまった。一昨年心筋梗塞で運ばれた。
比較的軽くて心臓の組織自体はほとんど損傷は無かったらしい、ステントという網状のチューブが一本血管に埋まっていて、幸い後遺症もなく日々ウオーキングに励んでいる。
遺伝というより本人の不摂生の原因が大きいのだけど・・

母方の私の祖母は脳卒中?で亡くなったのだが、母が一番頼りにしてる東京の叔母さんは心臓ペースメーカーが入っている障害者。正直母の具合の変化を伝えることも見舞いに来てくれるのも叔母さんの体調の方も気にかかる。もう高齢者だし。

母もずっと心臓が悪かった、種々薬も処方されていた。狭心症だか不整脈だかの心臓の病気で血の塊が飛んで脳に詰まり脳梗塞を発症すると医師が言ってた。母の闘病は親父以上で未だ進行形で続くがまだ書く気はしない。

最もショックだったのは私が高一の時、姉が不慮の事故(心臓麻痺)で亡くなったこと。後で判ったが心臓の薬を飲んでいたらしい。高齢者なら種々の病気が出てきてもいたし方ない面もあるが、若い死は家族共々悲惨極まりなかった。全ては過去の話だ。

今どんなに辛くても未来は必ず思い出に変わる、大事なのは過去を感傷的に引きずって現在に影響させるのではなく、常に今と未来に思案を向けることだと思う、過去を無駄な悔悟にしないためにも。 そうすればブログも書ける! なんちゃって。

同じ想いをしている方からもコメントいただけるようになりました、嬉しい限りです。僕の方が勇気を頂いてます。
ブログ初めてなのでコメント頂いた方々への返信とかよく解らないのですが、解る方いたら教えて下さればありがたいです。

2007-03-25

認知症(痴呆)の家系?遺伝するの?

わが家の父系の家系には実は痴呆が多い。祖父は若くして40代で亡くなったが祖母はやはり今で言う認知症だった。私がまだ小さい頃であまり記憶が無いが、トイレ以外の家の中で排便したり、徘徊みたいな感じで親戚の家に用も無いのに通っていたりしたらしい。

親父は長男で兄弟は(種違いで2人)8人もいる。昔はそんなもんだ。子供が大勢、今じゃ考えられない、8人も産んだんじゃ呆けてもしょうがない。ぐらいの感じもしてた。

でも一番上の姉も教師をしていた人だが、痴呆で徘徊等も繰り返し、ずっと寝たきり状態で従姉妹が自宅で介護し続け亡くなっている。
そしてすぐ下の弟も認知症、親父が亡くなってからも一時期頻繁にちょっと見当違いに思える葉書を送ってきていた。
その下の弟も同じ、話だけ聞いていて晩年入所している施設に見舞いに行ったが、もう話せなくて寝たきりの恍惚状態、田舎弁で話しかけたら一瞬反応したように見えた。
内科の医師をしていた人で頭も良かったのに医者として自分の痴呆が進行していくのをどういう感じで受け止めていたのだろう?親父の兄弟の中でいってみれば一番成功した叔父さんだったが晩年は哀れにも思える。
親父と二重写しに見えた。痩せて顔の骨格が浮き出ていたせいもあるが、晩年の親父とそっくりで、やっぱり兄弟なんだな~と感じた。

一緒に見舞いに行った従姉妹が以前電話で「家の母もそうだけど、一生懸命生きてきてこれだけの事を成しとげてがんばってきたのに、最後は全部訳判らなくなっちゃって人生ってなんなんだろうね?悲しいね!」というようなことを言ってた。別に認知症になった人の人生越し方が否定される訳でもないのは分かっていることだが。最後は安穏であってほしい。

「平均年齢が上がって昔より長寿になってきたから痴呆も多くなってきた」というが、今の医学でまだ治癒できないのなら、少しでも晩年に至った病気持の高齢者が楽に安泰でいられるように家族の安心も含めて切にそう思う。叔父叔母の家族も皆辛い思いをしていた。
今そういう状況に無くて何の関心も無い人も皆多かれ少なかれ経験する道なんだろうが。
未来はもっと軽減されるように願う。

2007-03-20

徘徊する親父との散歩 part2

徘徊もけっこう頻繁になり、私が心配しているのが通じたのか「息子が呼んでいるから」と言って出て行ったり、母が追い掛けきれず人を頼んで付いてもらうこともあった。
僕の仕事帰りにちょうど出て行く父に遭遇して「早く追いかけてや~」と母に言われ後を追った事も数回あった。

やはり忘れられない記憶がある。ここは地域柄大風が吹き捲る日が多々ある。ある日の夕刻、仕事帰りか休日だったか忘れたが親父がまた出て行ったので横に付いて一緒に歩いた。風がとても冷たく体がブルブル震えながら「父ちゃんどこへいくだー、帰るばー」と言いながら2人で歩いた。
親父は大風に体を揺らされるとちょっと立ち止まり、また黙々と歩を進める。寒そうな気配も感じさせず、俺が何か言ったり腕を取ったりすると少し俺の顔を見てまたきびすを返して歩きだす。何か口でしゃべりながら、風が強く何も聞こえない。一心不乱にただ歩く。

やっと一週の経路を誘導して帰ってきた、体は何か火照っていたような感じがする。少々頭にきて、親父の後ろから店の横のサッシの入り口を開け、立ち止まっているので「早く入れよ!」と言うと、一歩だけ中に入りまたじっとしている、そして右手を後ろに持ってきて後ろを振り向かないでゆっくり戸を閉めて家の中に入っていった。
俺の前でガラス戸がピシャリと閉められた。俺はまだ外にいるのに。
歩きながらの俺の態度に腹を立てたのか、すぐ後ろにいる俺の存在を認識していなかったのか。
何か親父に無視されたような、お前は入ってくるなと言われているようで、まるで幼い子供が親に叱られて家の外に出されたような、なんかやるせない感情が湧いて来て。すぐ戸が開けられなかった・・・

2007-03-18

土星

天体に詳しい人に付き合って天体観測
に行ったことがある。
真っ暗な中に小さい土星・木星と衛星を見せてもらい感動した覚えがある。
こんなでかくはなかったけど。


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2007-03-16

安藤和津と奥田瑛二さん家族の介護体験

今TV 「金スマ」で安藤和津さん、奥田瑛二さん家族の介護の体験観ました。脳腫瘍とのことだった。

家の親父はアルツハイマー性の痴呆・認知症で病気は違うが、同じ脳の病変で似たところもある。こういう内容のテレビは何か身につまされるようであまり見る気はしないのだが、やはり観てしまった・・。でも安藤さんは介護で苦労しながらも段々「今のこの苦労は子供の頃から親がしてくれた愛情への恩返しなんだ!と感じるようになって気持が切り替わった」というようなことを言っていた。

自分も親父がどんどん変わっていくことに戸惑い、怒りや焦燥感も何度も味わってきたが、時を経て好々爺っぽくなった時期に親父が非常に愛しく想えたことがある。今のお袋の状況にも同じ感情がある。

なんだかんだ思っても親父は親父、お袋はお袋であって、俺はその息子。切っても切れるもんじゃない。そして何を苦悩しようが、何を喜ぼうが、何を尊大ぶろうが親父お袋がいなかったら今の自分の存在自体も無かったことになる。そう思うと今現在の苦悩も喜びも全部自分持ち。宿命といえばそれまでだが全て受け入れて自分で変えていくしかない。眼を背けることはできない。

ある書物で読んだことがある。「苦悩が続く時は、この状況が永遠に続くのではないかと思える。しかし!永遠に続く楽しみがないように、永遠に続く苦しみも絶対にない!」この言葉に勇気を覚えたことがある。

2007-03-14

徘徊する親父との散歩

お袋のことも気掛かりだった。日中親父の徘徊に付き合って出たまではよかったが、途中のT字路でいつも右に曲がるのを車が来るのを立ち止まって待ったらしい。そこで思考が途切らされたのかいつもの道順と反対の左方向へ歩き出してしまった。
説得しても手を取っても言うことを聞かない、家と反対の方へどんどん進み海岸線を付き添っていたが心配しながら歩き続け、自分の方が心臓が苦しくなってしゃがみ込んでしまったという。
事無きを得たが、我家は心臓の良くない家系でお袋も亡くなった姉貴も心臓の薬を飲んでいた、俺もそうだが。父方は呆けの家系、母方は心臓病が多い、遺伝か?なんとか変換しなくては!

2007-03-11

徘徊する気持、親父のお辞儀。

親父はなぜ外へ出るようになったのだろう?認知症の痴呆状態が進行して徘徊までするようになった。と言えばそれまでだが、親父にもそれなりの理由があったように見られた。

ある日お袋の前に来て正座し丁寧にお辞儀した。そしてそっと一万円札を差し出して、「お世話になりました」と一言・・・
お袋があっけに取られて呆然としていると、そのまま出て行ってしまった・・・。気を取り直して後を追ってまた連れて戻ってきたが、その話を聞いてお袋の落胆ぶりが伝わってきた。

やはり親父も自分の奇異な言動、行動に家族が辛い思いをしているのを感じ取り自覚していたと思う。それがこの時は、こうなってしまった今の自分ができることは家を出て行くしかないという行動になったんだと思う。考えると親父も哀れに想えてしかたない。あの親父らしい表現の仕方だと、今想うと懐かしく哀愁すら憶えてしまう。本当に常識豊かで温和な人だったから。

2007-03-09

徘徊、一心不乱に歩く。

アルツハイマー性の痴呆、認知症は進みついに徘徊を頻繁にするようになった。
外に出て行くとお袋が傍に付いて後を追っていかなければならない。
帰ろうと呼びかけても、手を引いて引き戻そうとしても言う事を聞かない。親父もお袋も小柄な体格だが親父はただひょこひょこ一心不乱に歩き無理に止めることはできない。

でも大概歩くコース?は決まっていた。ぐる~と一周廻って戻るという感じ。まあお袋が「こっちの道」とか「右へ、右へ曲がって!」とかなんとか誘導していたみたいだが、親父も知っている道を忘れてしまっているのか迷うとなんとか指図に従って戻っていたみたいだ。
お袋の介護の心労が段々溜まっていく。

2007-03-07

目が離せなくなる。

お袋の方が大変だった、親父が独り言いってる時はそっとしておき、怒ってる時は逃げ隠れしてしばらく間を置き、少し落ち着いてから戻ってくればよかった。
でも徘徊するようになると何時ふっと居なくなるかも知れない。この頃になると親父の過激な情態は影を潜めたように無くなってほっとしもしたが、今度は目が離せなくなってしまった。

2007-03-05

徘徊が始まった!

個人店舗の自営業というものはほとんどが店舗内での仕事、我家は住宅兼店舗の家だから両親共一日中家に居ることになる。狭い地域だから特に出かける場所も無いのだが。
お袋は僕が休日の日は畑に行きたがり、親父はちょっと前まではよく仕入れの為に上京したり壮年期には旅行にもけっこう出かけていた。

 話はずっと前に遡るが、僕が小学校入るか入らない頃に父が車の運転をしていたのを見た記憶がある。免許取立てという感じで教官役の知り合いの人が同乗していた。
それも昔懐かしいオート三輪車の「ミゼット」だ! でも確か今では一方通行になってる家の前の道路を逆走していた。昔は一通じゃなかったのか・・?
親父が運転しているのを見た記憶はこの時だけ、話に聞くと免許更新しないで流してしまい、それきり取らなかったらしい。
そういう訳で親父は運転して外へ出かけることも無かったし、用が無い限り出歩くこともほとんど無かった。

そうやって家の中で呆けていってる分には客などに迷惑かけたりはしたけど、ある意味家庭内だけの秘め事・辛労の範囲で済んでいたともいえた。でもあれだけ外出することのなかった親父が急に外出しはじめた。症状の変化か?徘徊するようになってしまった。

2007-03-03

変わっていく父

いつ頃からか、親父のように細かくメモに残すような几帳面じゃない自分は憶えていないが、あれほど人格が変わった表情を現した父が変わってきた。
過激な行動が影を潜め、おとなしくなった。薬のおかげか、それとも自らセーブするように心境が変化したのか?分からない。でも痴呆・認知症の症状は進行しているように感じられた。

2007-03-01

ヤマブシダケが認知症にきく!

数日前、夜中TVのチャンネル変えたら、たまたまきのこ類の「ヤマブシダケ」というのが認知症の改善に良いと言ってた。
「ヤマブシタケ」という名前も初めて聞いたけど、まだラットでの試験だが認知症の症状が劇的に改善の傾向がみられたとのこと。ねずみも呆けるのか?

途中からですぐ終っちゃたけど後日ネットで調べてみたら(ヤマブシダケ 認知症)で検索かけるとけっこう出てきた。ボケやアルツハイマー型認知症に対する効果、認知症を予防する効果があるとされる「エリナシン」?や「ヘリセノン」?を含んでるとのこと。

結構有名だったのか?こんな田舎じゃ売ってない。でも俺も親父の息子だから先々どうなるか分からないし、予防で食べた方がいいかも知れない。早く医療が進歩してほしいものだ。

2007-02-27

血圧が上がってる

いつものようにお昼に家に帰っていた。親父は例のごとく店のあがりかまちでブツブツ言っていた。お袋は自分が帰った時にはもう居なかったのか、それとも俺が戻ってきたので安心して昼の間だけ出たのか記憶は無いが居なかった。
一人となりの部屋で昼食をとり少し横になりウトウトしていた。

親父が何か騒いでいる声がした。ふと振り返ると親父がこっちに来て鬼のような形相で立っていた。
そして、「何やってるだー お前は!」と怒鳴りつけられた。驚いて起き上がり、「あー!何のことだー?」と言うと、「お前は職場の金を使い込んでるっつうじゃないか!」と捲くし立てられた。 「そんなことするわきゃないだろ!誰がそんなことを言ってるだ!」と言ったら、「みんな言ってるじゃないか!」と言ってとなりの部屋に行きまたブツブツしゃべり始めた。

しばらくフリーズ状態だった。怒りがこみ上げて来て、妄想もいい加減にしろと親父のところに行ったが何事も無かったように誰もいない相手と言いあっている様子。
・・・何も言えなかった・・・。親父の背中を見て黙って家を出てそのまま職場に戻った。
戻り路、体が蒸気し火照っていた、血圧が上がるってのはこういう感じなんだなあーと始めて自覚したのを憶えている。悶々と仕事どころじゃなかった。

ほんとにこの時の親父は鬼の様な形相だった。そんな親父の顔を見たことも想像できる顔でもなかった。怒りというものを本当に素の状態で命から沸きだしたという感じで、怖かった。
人間はこんなにも変わるものなのか・・お袋も同じ情況をあじわっているのか・・・と。


2007-02-26

父ちゃんが変わってく

この頃になると親父のブツブツ独り言も誰かと言い争うような感じも出てきた。平静な時と異常な時が逆転しつつある。
認知症の進行でいままで無かった性格が出て来るのか?自分の病の自覚に苛つき症状が出た時にそれが怒りの行動になってしまうのか?それとも以前から心に抱いていたものが前面に出てくるのか?
その怒りの標的は母に向けられるようになった。急に怒鳴りつけたり、棒を持って向かって来たこともあったと。「目の仇みたいに」と嘆いていた。自分が居ない時の母が心配でしかたなかった。でもそんな状況でもお袋と俺も親父をまだ見守るしかなかった。どんなに変わっても父ちゃんは父ちゃんだから。

2007-02-25

錆びたシャッターと親父の奇行

親父はけっこう達筆な人だった。時折人から何かの書き物を頼まれて筆を執っていたりもしていた。そしてメモ魔というぐらい細かいことから日記まで小さなノートに何冊も走り書きしてあった。マジックで店の値札やPOP広告なんかも。
こんな几帳面なマメな人が痴呆やアルツハイマーになりやすいのだろうか?
そんなある日、これも夜母から聞いたのだが、母も気づかない間に店の入り口のガラス戸に張り紙がしてあったらしい。
内容は、〇〇〇は(シャッターを取り付けてくれた業者さんの名前) ~万円出したのにこんな(上げ下げできない)シャッターを付けた。というもの・・ 
島は強風が吹くと潮風がすごく塩害もひどい、ずっと何年も前にシャッターは錆びてきていた。親父も充分承知していただろうが、日々の上げ下げしずらいシャッターに苛つき、病がこの奇行をさせたらしい。 POP広告じゃあるまいし・・・字がうまくて書く事が好きなのも考えもんだぜ父ちゃん。
狭い地域だから通って見た人はどこの業者さんかすぐ判る、狭い地域だからすぐ噂になる、狭い地域だからすぐ書かれた本人の家の耳に入る。
その業者さんの奥さんが怒鳴り込んできてお袋はびっくり仰天したという。事情を話して謝ったとのこと。
日中家に居ない自分にとって親父も、そしてお袋も気がかりでしかたなくなってきた。

2007-02-23

父ちゃんの会話

小さな島に住んでいて外勤めでもお昼は家で食事をしていた。日中も親父のことが気にかかることが多々あった、そんな親父とずっと一緒に居るお袋のことも。
昼戻った時や夕刻帰ってから母からよく話を聞かされた。
日々の親父の変化は母も自分も受け入れるしかなかったが、慣れてきもした。
店舗の中での仕事と店番でずっと家に居て酒も飲まず(息子の俺も飲めないが)用が無ければあまり外に出ることもなかった親父は余計症状の進行も速かったかも知れない。
誰が傍に居ようが一人でかってにブツブツ話していることが多くなった。
家族がそこに居るのに誰か違う人と話している。ブツブツ小声で話の内容は聞き取れない。
今日はお客につり銭を間違えて渡してしまい、明らかに違うと指摘されて反対に逆切れしお客に対して怒鳴りつけたとお袋が嘆いていた。人を怒鳴るような親父じゃなかったのに。

2007-02-21

認知症の悪化 変わっていく親父

少しずつだが確実に父は変わっていった。温厚で寡黙で人からも好意的に見られる人だったが、段々と人格の崩壊が出てくるようになる。

その頃は考える余裕も無かったが後で思ったことは、本人が一番心の中で葛藤していたんじゃないだろうか?ということ。正常な時の自分と痴呆さが出てくる時の自分が自覚できて・・・。そしてそれはイライラ・ストレスがつのっていくことになる。

あれだけ温和だった親父が時折怒りをあらわにするようになる。そういう表情や行動に全然慣れていなかったお袋と自分だった。

2007-02-20

何故書き続けるのか?

しばらく親父の認知症の初期のことを書いてきたが、正直最初は「備忘録的に記憶を留めておくか。」程度の気持だった。
でも書き続けてみると記憶をたどってしまうせいか、忘れていた事も後から後から出てくる。
思い出したくもない事なのだが、何故続けるのか? たぶん・・・
  • 書いちゃった!から途中で止められない。
  • 書き留めておけば、嫌な記憶も安心して忘れてもいいいと思えるかも知れない。
  • 認知症、アルツハイマーだった親父の息子だから自分も呆けたら書き留めるどころじゃない。
  • 同じ様な境遇の人が見て、辛い思いは私だけなんじゃないと同感し、いつまで続くかわからない日々の格闘に少しは勇気と希望を湧かせてくれるかも知れない。
  • 惨憺たる情況はたくさんあったが、尊敬し愛する親父とお袋への感謝の気持で書けている。

    等々・・・だと思う。

これからのことを思うと、まだまだ親父の症状の悪化、お袋も倒れてしまう、その後から現在までのことなど進行形でまだ先は判らない。

でもただ辛かったというだけじゃなくて、両親の惨憺たる状態を見てきたおかげで日々の心の変遷、境涯の拡大も自分なりにあったと思う、そういう意味で親父・お袋に成長させてもらったということを感謝している。 やっぱり俺は父ちゃん母ちゃんの息子だ!

2007-02-19

薬を飲んでくれない。

そんな訳で親父はあまり医者に診てもらうことはしなかった。それでも診てもらいに診療所に連れて行ったのか薬はあった。痴呆の進行を遅らせる薬らしい。
でも親父は飲もうとしなかった。最初は飲んでいたのか記憶はないが全然口に運ぼうとしない。親父としてはボケてると思われていることも心外だったのだろう。
どうしたらいいか医師と相談し、医者やってる弟に薬だしてもらったら飲むだろうとわざわざ叔父さんに電話で親父と話してもらい薬も千葉から送ってもらった。
でも飲もうとしない。
また叔父さんに相談し、薬を細かくすり潰して料理や飲み物に混ぜて飲ませることにした。お袋の方が大変だった。
それでも親父の認知症状はだんだん進んでいく。お袋と俺の家族としてのストレスも・・・。

2007-02-18

叔父への受診

親父はほとんど病院とは無縁の人だった。私がまだ幼い頃大病してからタバコも止め、健康そのものというわけではなかったが地元の診療所にもほとんど罹ったことは無かったと思う。
そんな親父も自分の弟が千葉で内科の医院を開いていたのでお袋と一緒に検診がてらか診てもらいに行ったことがあった。自分が田舎に帰る以前の話だが、そこで叔父さんの紹介で病院で頭のCTかなにか分からないが撮ってもらったらしい。叔父さんの話だとその頃から脳に少し萎縮がみられたとのこと。
これから親父は頻繁に病院の世話になるのだが。

2007-02-17

いつ頃から?

父ちゃんの症状はいつ頃から始まったのか?直には知らなかったが数年前から物忘れが目立ってきたらしい。
洋品の仕入れ等で上京した時は、私が叔母の2階のアパートに住んでいたのでいつもそこに泊まっていたが、夏の暑い日公衆電話で電話した後BOXの中に脱いだ背広を忘れて、帰ってから叔母に「背広はどうしたの?」と聞かれて始めて気が付いたとかあったらしい。
叔母から電話で聞き、年だからとも思うが段々と母も不安感を感じてきて地元や東京の叔母達にも相談をしていたらしい。

2007-02-15

認知症とは

痴呆(ちほう)は、後天的な脳の器質的障害により、いったん正常に発達した知能が低下した状態をいう。主に高齢者介護分野では、認知症(にんちしょう)と呼称する。

ということ。痴呆は差別用語らしい、痴呆という言葉自体あまり使ったこともなかったが、初めの頃、頭にきた時は親父に向かって「ボケ」とか言ったことがある。自分の内の世界でひとりでしゃべっていた親父が口を止め、不意に平静に返った。
こっちの方がよほどの差別用語だった。

2007-02-14

ひとり言

段々と父のひとり言は増えていった。店の奥で店番をしている時や食事の時。
自分の心の想いをそのまま口にしているのか、誰かと話しているのか。
よく憶えてもいないが、最初は奇怪に感じていたと思うが一緒に住んでる家族はこちらも段々と慣れていくものだ。
普通に客観的に観てみれば例えは悪いが軽い狂人と一緒にいるようなもの・・・でもそれはまぎれもなく自分の親父。父ちゃん・・・。

2007-02-13

むかしばなし

普段と変わらぬ時と、ちょっとおかしな時。段々と比率が逆転していくのだが・・・
夕食の時だった、いつもの感じで普通に話していた。話してる内容はつじつまは合っていたと思う、でも昔の話。家族の知らない話、そんな前の話なのにハッキリとやけに詳しい。
家族に向かって話しかけるというのではなく、「昔は~だったな~」と普通に懐かしむ感じでもない。
最近の事は忘れやすく、若い頃の事を鮮明に憶えている、認知症、痴呆の初期はそんな感じらしい。
そういう時期がしばらく続いていた。 まだ平和だった。

2007-02-12

呆けていく自分との葛藤・・・

実家に戻ってからも父はごく普通にいつもと変わらぬ生活だった。自分でも最初はあまり変化は感じられなかったが、始終一緒にいる母は「計算するのになかなか合わないのか、ずーと同じことを何回も繰り返して時間かかってしまってイライラしていることがある」などと言っていた。
親父は大正生まれで計算はいまだにソロバンだった。それも僕等が子供の頃習った四つ玉でなく昔から愛用の下段が五つ玉の年代物だ。商人の父ちゃんを思い出させる・・・今も家にある・・・。

父ちゃんを見て来て感じたことは、人は急に認知症になるんじゃなくて、物忘れ等が自分でもはっきり自覚できて、以前の自分の持っていた能力が欠如していってることに対する苛立ち・葛藤が見えること。

本人はどれだけ気落ちし、自らの老いに不安を感じていただろう。だがバカな息子はその当時親父の気持なんか何も理解できなかった。

2007-02-11

U ターン

父は寡黙で、温和な人だった。服飾等の商店を母と経営していた。
僕は東京で叔母の家の2階のアパート住まいだったが、その父が最近痴呆っぽくなってきたと
母から聞くようになった。時折仕入れで上京してきていたが、だんだん母や叔母が心配して上京させなくなり、仕入れは叔母さんがしていてくれていた。
 

 物忘れ、ひとり言等が多くなり、母も一人で不安感を抱いていたのだろう。父はまだ普段は全然普通の状態だったが、息子が自分ひとりだけなのでずっと帰りたくはなかったが両親や親戚に説得され仕事ももちろん転職し、家業は手伝わなかったがUターンすることになった。1987年、昭和62年の11月。今年でちょうど満20年になる。

2007-02-10

安 穏


初めてのブログ、初めての書き込み・・・。

 父母を想う時・・・毎日想っている、時折に想い起こす。 何故ブログを始めたか。

父は80歳で他界、何年も痴呆状態(今でいう認知症)だった。

母は今84歳、10年以上も脳梗塞での障害に苦しみ、今は指一本も動かせない寝たきり状態。

特別養護老人ホームに入所している。

子供も自分一人きりになってしまったから、独りで総てを受け止め、独り責任を負い、独り苦しんでき

た。

 周りの人達は状況を知りいろいろ手助けをしてくれて感謝に耐えない。でも苛まれる時はいつも自分

独りだった。 別に知ってもらうつもりはない、全ては自分の宿命として自身が乗越えるしかない!

今は父母への感謝の気持で日々過ごしている。

 20年近く続いているこの状況を振り返って自分の気持の変遷、父母への想いを綴ってみたい。

知ってる人には見られたくないけど、ブログなら同じ様な状況、辛い思いを抱いてる人も見てくれるだろ

う。自分で悩んだ分、自分の腹の中にだけ収めとくんじゃなくて、そういう人達に少しでも同感、そして

勇気とか希望を与えられたらと思う。