2008-06-28

久しぶりの更新

 本当に久しぶりに書いてます。
実は母の様態が一進一退を繰り返していたのですが、2007年9月に逝去しました。
脳梗塞を患い、10数年もの間不自由な生活を続けていました。私自身もある意味認知症だった親父の時以上の辛苦を経験したのですが、父母共逝った後は思い出す度に感謝の恩情が胸に湧いてくるのを感じます。

 正直お袋のことを気に病んでいた時期に亡き父のことを想い起こして書いていたので、いざ最大に気にかけていた母が亡くなって、頭の中は母の方に向いていて、親父のことをブログに書き続ける気分にはなれずにずっとそのままにしていました。


でも先日「親父の挫折と失踪」の欄にありがたいコメントを頂きました
父の認知症、そして母の脳梗塞からの身体障害という僕の苦悩は一応の終わりを告げました。でも世の中にはまだ僕と同じような状況で悩んでいる人がたくさんいる。
そして高齢化社会が進むからこれからも父母の老齢や病気・介護で苦悩に直面する人達がたくさん増えてくると思う。
そんな中でなんとか解決策を、救いを求めてインターネットで検索し、僕のサイトを見つけて共感し、涙してくれた、勇気をもらえたと書いてくれました。
 私が父と母のことをサイトに残しておこうと思い、そして見に来てくれた人に少しでも勇気と希望を与えられたら・・・との最初の想いがよみがえり、また記事の更新がされていないので僕の体のことまで心配してくださって申し訳ない思いです。

 以前もコメントくれた方がいましたが、こういう方に少しでもお役にたつのならと感じ、いろいろ考えましたが、また思い出しながらまとめてみようと思っています。

 思い返せば、親父が呆け始めたとのことで田舎の実家に戻ってから、父そして母も倒れ、両親の病気の晩年を見つめ、父が亡くなりそして母が逝って、気が付けばちょうど20年もの歳月が経っていました。

 その間たくさんの出来事がありショックも受けましたが、一番の心労というのは「この苦悩の状況がいったいいつまで続いていくんだろう・・・」との思いでした。

元の元気な状態になるのは望めない。とすると‘終わる‘ということは‘親が亡くなる時‘ということになる。もちろんそんなことは望んでもいないし、考えたくもない。結局、解決策はなく、何か事が起こる度に「いったい、いつまでこんなことが続くんだ!」ということでした。

 でも、もちろん今だから言えることですが、以前も書きましたが「永遠に続く苦悩は絶対にない!」ということです。一番良くないのは、この労苦が果てしなくずっと続くと感じて苛まれて希望を見い出せない状況に陥ってしまうことです。僕もそうなったことがありました。20年は正直いって長かったです。ストレスが蓄積してか一時期体を壊したこともありました。

 でも、終わりました。そして今は「長くて辛かったなぁ・・」という感傷的なものでは無く、「父ちゃん母ちゃんありがとうよ!!」っていう感謝の念の方が強く湧いて来ます。こんな思いをしたから、普段はあまり感じない親の大切さ・親への想い・人への愛情というものを自分の中に認識させてくれたという感じです。いってみりゃ親が自分の姿を通して子供を鍛えて、最後に子供の心の教育をしてくれたのかもって思ったりもしました。

そうしてみれば、あの時は本当に大変な思いをしたけれども、過ぎてしまえばですが、こういう経験は辛いけど決して無意味なこととは思えなくなります。今安閑としている人達をうらやむ気もなく、大切な心の宝物を持てたようにも思います。

だから!・・・今は大変で苦しいけど、きっと大丈夫ですよ!!。

2007-05-13

神楽坂の本多横丁、今は沖縄料理店

東京新宿区神楽坂の本多横丁、この通りの左側に親父の和菓子2号店があった。半世紀以上経た現在は沖縄料理店になっていた。
新宿といってもいわゆる繁華街ではなくて、
ちょっと横道に入ると昔風の料亭や塀などが見えた。
風情があるといえばあるのだが、田舎育ちの僕には馴染みが無く、何か異空間にいるみたいで、ミニチュアの街に入り込んだという感じだった。

2007-05-06

親父の挫折と失踪

ちょっと久しぶりの投稿、春につられて中弛みしてました。見に来てくれてた人ごめんなさい。少しずつでも書き続けていきたいと思います。

親父の認知症の件から離れているが、もう一つ書き残して置きたいことがある。
これも従姉妹から聞いた話だが、親父の三田の和菓子店は繁盛していて同郷の人も数人働いていた。
そこで2店目を考えたらしく今度は東京新宿区の神楽坂にも店舗を出した。
神楽坂といえば東京の花街・花柳界で栄えた代表的な地域だ。今でもそうだが親父のいた時代はもっと最盛期の頃だったんだろう。
そこで料亭やら芸者達への和菓子の仕出や販売を狙った出店だったとのこと。

でもその出店の為に借金をしたらしい。「高利貸しだったみたい」と言ってた。
そのせいで神楽坂の店は明渡すことになり、失意に沈んだ父は一時失踪というか行方不明になっていた。
京都方面に行っていたらしい。父の親、私のお祖父さんは奈良の人だからそっちまで足を延ばしたかは知らないが・・・ 和菓子の本場の京都で何を思って放浪の旅をしていたんだろう・・・父は一言も息子の俺には話したことは無い。その時の親父の心情が偲ばれる。父ちゃんの子供だから・・。

結局繁盛していた三田の方の店舗も主が居なくなり、借金の担保にでもなっていたのか店も土地も失ってしまう。この話をしてくれた従姉妹が伯母に言われて当時の50万円?を握りしめて土地だか店舗だかの入札に行かされたらしいが、何かもううまく決められて取られてしまっていてダメだったという。その後従姉妹が抜けていた半畳ほどの土地をめぐって裁判をしていて、勝取った半畳の土地の金額を父達に分けてあげた。
このブログのことは教えてないけど、「な~んて良い人なんだ」と書いときます!

親父が同郷の前妻との間に息子を1人亡くし、離婚した時期がこの当時と関わりがあったのか、前後の話なのかはよく聞いてなくて分からない、でもその後親父は田舎に戻り、また和菓子屋を開き、お袋と再婚することになる。

親父が寡黙だったのはこういう過去も人生に影を落としていたのかも知れない。
でも親父が田舎に戻り、新しい人生を再出発しなければ、今の私もこの世にこの場所に存在しない。そして父は私達家族にそんな過去の事など想像すらもさせない温和な俗に言う「良い人」だった。

「辛い思い」はその時は苦しむが、決して無駄じゃない!恥ずかしい事でもない!
それを乗り越えさえすれば、人の苦しみも分かり包容力も備えた温和で人間的な魅力をかもし出す人格も形成出来る。 (ちょっと親父を美化しすぎたかな?) いけないのは、落ち込み自分を卑下して悩みの迷宮から抜け出せないことだ!(・・私も反省します・・。)

2007-04-14

東京タワーと桜田通り


東京タワーがでっかく正面に見える。
この歩道を歩くシーンを数回TVで観たことがある。
ちなみに写ってる人はたまたま歩いてて写ってしまった人。
写ってる歩道の反対側の歩道に親父の店舗があった。

2007-04-13

東京タワーがない

親父は寡黙な人柄で昔の話とかはあまりしなかった。特に東京に住んでいた頃のことは一度も父から聞いたことはない。

母も父が昔東京の三田に住んでいて前妻との間に1人子供を亡くしていることぐらいで、あとは何も話してくれないから私も知らないと言っていた。

私がある程度の話を聞いたのは、伯母さんとその娘(従姉)からだった。

年代はよく判らないが、もう半世紀以上も前になる。
親父は東京港区の三田方面にある桜田通り(国道一号)に面した所に和菓子の店舗を構えていた。けっこう繁盛していたという。

道路を隔てたすぐ向いには慶応大学の東門がありこの通りの真正面にはでかくそびえ立つ東京タワーが建っている。

「桜田通り」はけっこう写真などの撮影のスポットで、時折TVドラマなどで東京タワーが映ったこの通りを歩くシーンを観ることがある。

親父が住んでいた頃は東京タワーはまだ影も形も無い。半世紀以上も前のことだから。
親父はこの通りでどんな想いを描いていたんだろう?
そして東京タワーの無いこの「桜田通り」の風景はどんなんだったんだろう? と思う。