2007-02-27

血圧が上がってる

いつものようにお昼に家に帰っていた。親父は例のごとく店のあがりかまちでブツブツ言っていた。お袋は自分が帰った時にはもう居なかったのか、それとも俺が戻ってきたので安心して昼の間だけ出たのか記憶は無いが居なかった。
一人となりの部屋で昼食をとり少し横になりウトウトしていた。

親父が何か騒いでいる声がした。ふと振り返ると親父がこっちに来て鬼のような形相で立っていた。
そして、「何やってるだー お前は!」と怒鳴りつけられた。驚いて起き上がり、「あー!何のことだー?」と言うと、「お前は職場の金を使い込んでるっつうじゃないか!」と捲くし立てられた。 「そんなことするわきゃないだろ!誰がそんなことを言ってるだ!」と言ったら、「みんな言ってるじゃないか!」と言ってとなりの部屋に行きまたブツブツしゃべり始めた。

しばらくフリーズ状態だった。怒りがこみ上げて来て、妄想もいい加減にしろと親父のところに行ったが何事も無かったように誰もいない相手と言いあっている様子。
・・・何も言えなかった・・・。親父の背中を見て黙って家を出てそのまま職場に戻った。
戻り路、体が蒸気し火照っていた、血圧が上がるってのはこういう感じなんだなあーと始めて自覚したのを憶えている。悶々と仕事どころじゃなかった。

ほんとにこの時の親父は鬼の様な形相だった。そんな親父の顔を見たことも想像できる顔でもなかった。怒りというものを本当に素の状態で命から沸きだしたという感じで、怖かった。
人間はこんなにも変わるものなのか・・お袋も同じ情況をあじわっているのか・・・と。


2007-02-26

父ちゃんが変わってく

この頃になると親父のブツブツ独り言も誰かと言い争うような感じも出てきた。平静な時と異常な時が逆転しつつある。
認知症の進行でいままで無かった性格が出て来るのか?自分の病の自覚に苛つき症状が出た時にそれが怒りの行動になってしまうのか?それとも以前から心に抱いていたものが前面に出てくるのか?
その怒りの標的は母に向けられるようになった。急に怒鳴りつけたり、棒を持って向かって来たこともあったと。「目の仇みたいに」と嘆いていた。自分が居ない時の母が心配でしかたなかった。でもそんな状況でもお袋と俺も親父をまだ見守るしかなかった。どんなに変わっても父ちゃんは父ちゃんだから。

2007-02-25

錆びたシャッターと親父の奇行

親父はけっこう達筆な人だった。時折人から何かの書き物を頼まれて筆を執っていたりもしていた。そしてメモ魔というぐらい細かいことから日記まで小さなノートに何冊も走り書きしてあった。マジックで店の値札やPOP広告なんかも。
こんな几帳面なマメな人が痴呆やアルツハイマーになりやすいのだろうか?
そんなある日、これも夜母から聞いたのだが、母も気づかない間に店の入り口のガラス戸に張り紙がしてあったらしい。
内容は、〇〇〇は(シャッターを取り付けてくれた業者さんの名前) ~万円出したのにこんな(上げ下げできない)シャッターを付けた。というもの・・ 
島は強風が吹くと潮風がすごく塩害もひどい、ずっと何年も前にシャッターは錆びてきていた。親父も充分承知していただろうが、日々の上げ下げしずらいシャッターに苛つき、病がこの奇行をさせたらしい。 POP広告じゃあるまいし・・・字がうまくて書く事が好きなのも考えもんだぜ父ちゃん。
狭い地域だから通って見た人はどこの業者さんかすぐ判る、狭い地域だからすぐ噂になる、狭い地域だからすぐ書かれた本人の家の耳に入る。
その業者さんの奥さんが怒鳴り込んできてお袋はびっくり仰天したという。事情を話して謝ったとのこと。
日中家に居ない自分にとって親父も、そしてお袋も気がかりでしかたなくなってきた。

2007-02-23

父ちゃんの会話

小さな島に住んでいて外勤めでもお昼は家で食事をしていた。日中も親父のことが気にかかることが多々あった、そんな親父とずっと一緒に居るお袋のことも。
昼戻った時や夕刻帰ってから母からよく話を聞かされた。
日々の親父の変化は母も自分も受け入れるしかなかったが、慣れてきもした。
店舗の中での仕事と店番でずっと家に居て酒も飲まず(息子の俺も飲めないが)用が無ければあまり外に出ることもなかった親父は余計症状の進行も速かったかも知れない。
誰が傍に居ようが一人でかってにブツブツ話していることが多くなった。
家族がそこに居るのに誰か違う人と話している。ブツブツ小声で話の内容は聞き取れない。
今日はお客につり銭を間違えて渡してしまい、明らかに違うと指摘されて反対に逆切れしお客に対して怒鳴りつけたとお袋が嘆いていた。人を怒鳴るような親父じゃなかったのに。

2007-02-21

認知症の悪化 変わっていく親父

少しずつだが確実に父は変わっていった。温厚で寡黙で人からも好意的に見られる人だったが、段々と人格の崩壊が出てくるようになる。

その頃は考える余裕も無かったが後で思ったことは、本人が一番心の中で葛藤していたんじゃないだろうか?ということ。正常な時の自分と痴呆さが出てくる時の自分が自覚できて・・・。そしてそれはイライラ・ストレスがつのっていくことになる。

あれだけ温和だった親父が時折怒りをあらわにするようになる。そういう表情や行動に全然慣れていなかったお袋と自分だった。

2007-02-20

何故書き続けるのか?

しばらく親父の認知症の初期のことを書いてきたが、正直最初は「備忘録的に記憶を留めておくか。」程度の気持だった。
でも書き続けてみると記憶をたどってしまうせいか、忘れていた事も後から後から出てくる。
思い出したくもない事なのだが、何故続けるのか? たぶん・・・
  • 書いちゃった!から途中で止められない。
  • 書き留めておけば、嫌な記憶も安心して忘れてもいいいと思えるかも知れない。
  • 認知症、アルツハイマーだった親父の息子だから自分も呆けたら書き留めるどころじゃない。
  • 同じ様な境遇の人が見て、辛い思いは私だけなんじゃないと同感し、いつまで続くかわからない日々の格闘に少しは勇気と希望を湧かせてくれるかも知れない。
  • 惨憺たる情況はたくさんあったが、尊敬し愛する親父とお袋への感謝の気持で書けている。

    等々・・・だと思う。

これからのことを思うと、まだまだ親父の症状の悪化、お袋も倒れてしまう、その後から現在までのことなど進行形でまだ先は判らない。

でもただ辛かったというだけじゃなくて、両親の惨憺たる状態を見てきたおかげで日々の心の変遷、境涯の拡大も自分なりにあったと思う、そういう意味で親父・お袋に成長させてもらったということを感謝している。 やっぱり俺は父ちゃん母ちゃんの息子だ!

2007-02-19

薬を飲んでくれない。

そんな訳で親父はあまり医者に診てもらうことはしなかった。それでも診てもらいに診療所に連れて行ったのか薬はあった。痴呆の進行を遅らせる薬らしい。
でも親父は飲もうとしなかった。最初は飲んでいたのか記憶はないが全然口に運ぼうとしない。親父としてはボケてると思われていることも心外だったのだろう。
どうしたらいいか医師と相談し、医者やってる弟に薬だしてもらったら飲むだろうとわざわざ叔父さんに電話で親父と話してもらい薬も千葉から送ってもらった。
でも飲もうとしない。
また叔父さんに相談し、薬を細かくすり潰して料理や飲み物に混ぜて飲ませることにした。お袋の方が大変だった。
それでも親父の認知症状はだんだん進んでいく。お袋と俺の家族としてのストレスも・・・。

2007-02-18

叔父への受診

親父はほとんど病院とは無縁の人だった。私がまだ幼い頃大病してからタバコも止め、健康そのものというわけではなかったが地元の診療所にもほとんど罹ったことは無かったと思う。
そんな親父も自分の弟が千葉で内科の医院を開いていたのでお袋と一緒に検診がてらか診てもらいに行ったことがあった。自分が田舎に帰る以前の話だが、そこで叔父さんの紹介で病院で頭のCTかなにか分からないが撮ってもらったらしい。叔父さんの話だとその頃から脳に少し萎縮がみられたとのこと。
これから親父は頻繁に病院の世話になるのだが。

2007-02-17

いつ頃から?

父ちゃんの症状はいつ頃から始まったのか?直には知らなかったが数年前から物忘れが目立ってきたらしい。
洋品の仕入れ等で上京した時は、私が叔母の2階のアパートに住んでいたのでいつもそこに泊まっていたが、夏の暑い日公衆電話で電話した後BOXの中に脱いだ背広を忘れて、帰ってから叔母に「背広はどうしたの?」と聞かれて始めて気が付いたとかあったらしい。
叔母から電話で聞き、年だからとも思うが段々と母も不安感を感じてきて地元や東京の叔母達にも相談をしていたらしい。

2007-02-15

認知症とは

痴呆(ちほう)は、後天的な脳の器質的障害により、いったん正常に発達した知能が低下した状態をいう。主に高齢者介護分野では、認知症(にんちしょう)と呼称する。

ということ。痴呆は差別用語らしい、痴呆という言葉自体あまり使ったこともなかったが、初めの頃、頭にきた時は親父に向かって「ボケ」とか言ったことがある。自分の内の世界でひとりでしゃべっていた親父が口を止め、不意に平静に返った。
こっちの方がよほどの差別用語だった。

2007-02-14

ひとり言

段々と父のひとり言は増えていった。店の奥で店番をしている時や食事の時。
自分の心の想いをそのまま口にしているのか、誰かと話しているのか。
よく憶えてもいないが、最初は奇怪に感じていたと思うが一緒に住んでる家族はこちらも段々と慣れていくものだ。
普通に客観的に観てみれば例えは悪いが軽い狂人と一緒にいるようなもの・・・でもそれはまぎれもなく自分の親父。父ちゃん・・・。

2007-02-13

むかしばなし

普段と変わらぬ時と、ちょっとおかしな時。段々と比率が逆転していくのだが・・・
夕食の時だった、いつもの感じで普通に話していた。話してる内容はつじつまは合っていたと思う、でも昔の話。家族の知らない話、そんな前の話なのにハッキリとやけに詳しい。
家族に向かって話しかけるというのではなく、「昔は~だったな~」と普通に懐かしむ感じでもない。
最近の事は忘れやすく、若い頃の事を鮮明に憶えている、認知症、痴呆の初期はそんな感じらしい。
そういう時期がしばらく続いていた。 まだ平和だった。

2007-02-12

呆けていく自分との葛藤・・・

実家に戻ってからも父はごく普通にいつもと変わらぬ生活だった。自分でも最初はあまり変化は感じられなかったが、始終一緒にいる母は「計算するのになかなか合わないのか、ずーと同じことを何回も繰り返して時間かかってしまってイライラしていることがある」などと言っていた。
親父は大正生まれで計算はいまだにソロバンだった。それも僕等が子供の頃習った四つ玉でなく昔から愛用の下段が五つ玉の年代物だ。商人の父ちゃんを思い出させる・・・今も家にある・・・。

父ちゃんを見て来て感じたことは、人は急に認知症になるんじゃなくて、物忘れ等が自分でもはっきり自覚できて、以前の自分の持っていた能力が欠如していってることに対する苛立ち・葛藤が見えること。

本人はどれだけ気落ちし、自らの老いに不安を感じていただろう。だがバカな息子はその当時親父の気持なんか何も理解できなかった。

2007-02-11

U ターン

父は寡黙で、温和な人だった。服飾等の商店を母と経営していた。
僕は東京で叔母の家の2階のアパート住まいだったが、その父が最近痴呆っぽくなってきたと
母から聞くようになった。時折仕入れで上京してきていたが、だんだん母や叔母が心配して上京させなくなり、仕入れは叔母さんがしていてくれていた。
 

 物忘れ、ひとり言等が多くなり、母も一人で不安感を抱いていたのだろう。父はまだ普段は全然普通の状態だったが、息子が自分ひとりだけなのでずっと帰りたくはなかったが両親や親戚に説得され仕事ももちろん転職し、家業は手伝わなかったがUターンすることになった。1987年、昭和62年の11月。今年でちょうど満20年になる。

2007-02-10

安 穏


初めてのブログ、初めての書き込み・・・。

 父母を想う時・・・毎日想っている、時折に想い起こす。 何故ブログを始めたか。

父は80歳で他界、何年も痴呆状態(今でいう認知症)だった。

母は今84歳、10年以上も脳梗塞での障害に苦しみ、今は指一本も動かせない寝たきり状態。

特別養護老人ホームに入所している。

子供も自分一人きりになってしまったから、独りで総てを受け止め、独り責任を負い、独り苦しんでき

た。

 周りの人達は状況を知りいろいろ手助けをしてくれて感謝に耐えない。でも苛まれる時はいつも自分

独りだった。 別に知ってもらうつもりはない、全ては自分の宿命として自身が乗越えるしかない!

今は父母への感謝の気持で日々過ごしている。

 20年近く続いているこの状況を振り返って自分の気持の変遷、父母への想いを綴ってみたい。

知ってる人には見られたくないけど、ブログなら同じ様な状況、辛い思いを抱いてる人も見てくれるだろ

う。自分で悩んだ分、自分の腹の中にだけ収めとくんじゃなくて、そういう人達に少しでも同感、そして

勇気とか希望を与えられたらと思う。