2007-05-13

神楽坂の本多横丁、今は沖縄料理店

東京新宿区神楽坂の本多横丁、この通りの左側に親父の和菓子2号店があった。半世紀以上経た現在は沖縄料理店になっていた。
新宿といってもいわゆる繁華街ではなくて、
ちょっと横道に入ると昔風の料亭や塀などが見えた。
風情があるといえばあるのだが、田舎育ちの僕には馴染みが無く、何か異空間にいるみたいで、ミニチュアの街に入り込んだという感じだった。

2007-05-06

親父の挫折と失踪

ちょっと久しぶりの投稿、春につられて中弛みしてました。見に来てくれてた人ごめんなさい。少しずつでも書き続けていきたいと思います。

親父の認知症の件から離れているが、もう一つ書き残して置きたいことがある。
これも従姉妹から聞いた話だが、親父の三田の和菓子店は繁盛していて同郷の人も数人働いていた。
そこで2店目を考えたらしく今度は東京新宿区の神楽坂にも店舗を出した。
神楽坂といえば東京の花街・花柳界で栄えた代表的な地域だ。今でもそうだが親父のいた時代はもっと最盛期の頃だったんだろう。
そこで料亭やら芸者達への和菓子の仕出や販売を狙った出店だったとのこと。

でもその出店の為に借金をしたらしい。「高利貸しだったみたい」と言ってた。
そのせいで神楽坂の店は明渡すことになり、失意に沈んだ父は一時失踪というか行方不明になっていた。
京都方面に行っていたらしい。父の親、私のお祖父さんは奈良の人だからそっちまで足を延ばしたかは知らないが・・・ 和菓子の本場の京都で何を思って放浪の旅をしていたんだろう・・・父は一言も息子の俺には話したことは無い。その時の親父の心情が偲ばれる。父ちゃんの子供だから・・。

結局繁盛していた三田の方の店舗も主が居なくなり、借金の担保にでもなっていたのか店も土地も失ってしまう。この話をしてくれた従姉妹が伯母に言われて当時の50万円?を握りしめて土地だか店舗だかの入札に行かされたらしいが、何かもううまく決められて取られてしまっていてダメだったという。その後従姉妹が抜けていた半畳ほどの土地をめぐって裁判をしていて、勝取った半畳の土地の金額を父達に分けてあげた。
このブログのことは教えてないけど、「な~んて良い人なんだ」と書いときます!

親父が同郷の前妻との間に息子を1人亡くし、離婚した時期がこの当時と関わりがあったのか、前後の話なのかはよく聞いてなくて分からない、でもその後親父は田舎に戻り、また和菓子屋を開き、お袋と再婚することになる。

親父が寡黙だったのはこういう過去も人生に影を落としていたのかも知れない。
でも親父が田舎に戻り、新しい人生を再出発しなければ、今の私もこの世にこの場所に存在しない。そして父は私達家族にそんな過去の事など想像すらもさせない温和な俗に言う「良い人」だった。

「辛い思い」はその時は苦しむが、決して無駄じゃない!恥ずかしい事でもない!
それを乗り越えさえすれば、人の苦しみも分かり包容力も備えた温和で人間的な魅力をかもし出す人格も形成出来る。 (ちょっと親父を美化しすぎたかな?) いけないのは、落ち込み自分を卑下して悩みの迷宮から抜け出せないことだ!(・・私も反省します・・。)